「ネパール通信」 緊急地震報告(その二)
岐阜ネパール会の筋田さんから緊急地震報告(その二)がやって来ました。転載して紹介させていただきます。
筋田さんの文章を読むと、地震から多少の時間が経過して、現地にだんだんと落ち着きが戻ってきている事が伺われます。ネパールはこれからゆっくりと復興に入るのでしょう。東日本大震災の後、原発を除けば日本は数年で復興してきましたが、ネパールが完全に元のようになるにはきっと10年から20年の時間がかかることと思います。
日本だったら重機を使いあっという間に終わることが、ネパールでは全部人の手で行われます。重機を使いたいと思っても、山間部で重機が入れなかったり、そもそも重機の絶対数が足りなかったり、重機があってもきちんと整備されていなかったりと本当に様々な障害があります。
僕ら日本は海に囲まれているので、海がないというのがどういう事か想像しづらいのですが、海のない国と言うのは本当に大変です。海のない国では船で海外に行けませんし、物資もなかなか届きません。海外と商売して色々な物がすぐにやってくるのも、海があるからです。
例えば日本からネパールに海便で荷物を送る時を考えてみます。投函された荷物は日本からシンガポールを経由してコルカタの港につきます。コルカタの港で荷揚げされ、ネパール行きのトラックに載せられます。インドの各州のボーダーを超えて、カカルビッタ経由で国境を超えネパール領内に入ります。ヒマラヤの山道を越えてカトマンズへ到着します。日本からコルカタまで一ヶ月、コルカタからカトマンズまで2週間、その間に何回も税関があるので、なんだかんだで2ヶ月はかかります。
ただ物を送るだけで凄い時間と手間とお金がかかるのです。残念な事ですが、そのような国はどうしても発展から取り残されがちになります。
もし、ネパールがインドと戦争したら…ネパールにはほぼすべての物資が入らなくなります。ちなみに中国側はチベットの整備されていない道路超えですので、こちらもあまりアテにはなりません。インドの顔色をいつも伺って生きている…きっとネパールってそう言う小国なんですよね。
さて、筋田さんのレポート、ここから始まります。写真もたくさん付いていますので、ぜひごゆっくりお読み頂ければと思います。
5月4日(月)天気:晴れ 気温:22℃ 湿度60%
ネパールの人々にとって多くは「初めての体験」であった今回の地震は、いろいろな問題を極貧国に与えた。数多くの家の再建は何十年も掛かる事であろう。さらに、「貧富の差」がさらに広がったと言っても過言ではない。なぜなら、お金のある家は「倒壊せず」貧困な家は「全壊」状態となれば、必然的に借金でしか家の再建は不可能である。
さらに困ったのはやはりネパールマインドである。今までの生活で、支援に慣れている国民である。個人でも団体でも同じだろうと要求してくるから問題が難しくなる。ユニセフや赤十字などの大きな団体も、一個人の支援組織も、彼らには同じなのである。今回のような災害は初めての彼らには、誰でもいいのである。
今回は先のラムチェ村の偵察から知り得た情報で、「初めに必要なものは何?」を考えた結果、第一に食料の不足が目立ち、次に住居・雨対策の順だがラムチェ村は後ろに大きな「崖」を有して、雨期には毎年大きな石が落ちて来るという。これが一番怖いそうである。地震の時も落ちて来て多くの村人が怯えていた。5mも7mもある大きな岩石が数百メートルも「ころがり落ちて来て」は殆どの人が恐怖を覚える。
こうした中で「私たちのやるべき事は何?と考え「適切な被災地へ緻密な痒いところに手の届くような支援が施されるのが理想であろう。」と考えた。
一方、以前「編み物教室」でお世話になった「あやさん」から至急会いたいと連絡があり、4月末日の夕方銀杏旅館まで来てもらった。彼女はアフリカに行っていて、戻ってきてびっくり!取り合えず「何が出来るかを模索」していたようで、旅館に着くと直ぐに「何をどうすれば」いいのか?「何処から」手を付ければいいのか?など機関銃の如く話続けて「ちょっと外へ」といって「一服」、私も外に出て夜景の中で多くの質問に答え、お金を集める努力をする時。今は情報を集める時。今は調査をする時。と言う事を分かってもらった。
8時過ぎになったので「泊まっていく?」と聞くと「ヒッチハイク」でも何でもしてカトマンドウへ戻ります。との話で別れた。翌日、バネパのレストランで彼女から携帯電話があり「明日ラムチェ村」へ行けないか?との問いに、私もメールダラの被災状況調査のために同じ方向へ出向く予定が出来たため、翌日スクテまで同行し彼女はそのままバラビシまで行き「パトネちゃん」と合流後ラムチェ村へ行き、私はミルクのトラックでメールダラと別々の行動を取る事になった。
彼女も被害の大きな所への支援を考えていて、調査のためにラムチェ村へ入りたいとの事。直ぐにパトネちゃんに連絡して、「あやさん」の行く事を伝え、バラビシでピックアップしてもらう事にした。5月2日心配なメールダラの様子を調査に出かけた。
バスを乗り継いで、出来たばかりの鉄橋を徒歩で渡り、大型トラックの荷台に米やラーメン・野菜などと一緒に「ぐちゃぐちゃ」の道を1時間、足腰も「ふらふら」の状態でやっとたどり着いた。村の入り口も多少の被災はあったが、住めないほどではない。
最も心配な「学校」はと言うと、セメントでの補強工事のお陰で殆ど無傷の状態であった。一部クラックの入った所はセメントで補修してもらう事として村々を調査。結果は4?6件の家はかなりひどく破損しているものの、多くは健在であった。
しかし、毎日のニュースでは「余震で崩れる家もあるため、外でテントを張って寝て下さい」との情報から多くの村人はトタンやビニールで立派な「コテージ」を作りキャンプさながらの生活である。しかし、ベッドの数が足りず小さなベッドに4人も寝ている状態であった。
村人も殆ど悲観的ではなく、普段と何ら変わることのない生活をしていた。一安心であった。
村長さんからは「どんな支援をして助けてくれる?」との質問もあったが、ここよりひどい地域「ラムチェ村の支援が先」である事を写真を見せながら説明すると、しぶしぶ納得したようであった。
これで、8月に日本の学生さんたちを受け入れる事が出来る。しかし。周りの街では「がれきの山」であり、それを考えると「良かった!」と喜んでばかりはいられないのが今の心境である。 銀杏旅館の被災状況はと言うと、新館屋上のソーラーでお湯を作る装置の足が「ぐにゃ1」と曲がり現在は使えない状態である。
さらに旧館はと言うと、昔ながらのネパールの家を考えて作った「石と土」の家であったが、セメントで補強していたため大きな破壊もなく「クラック」だけで済んだのは幸いであった。 ここで生活すると言う事は、現地に根付く事を意味するが、7年間も住んでいるが村人は「外国人」と言う目で何時も見ている。
先般もキリスト協会の支援物資が配布された折、(配布はヨーロッパ人)ある村人が私の事を「彼は外国人であるので支援物資は不要」と配布している人に訴えていたが、彼が「ここに住んでいるのか?」と言う質問に「そうです、7年になります」と答えると、黙って「お米一俵と油・2000Rs現金・」を手渡してくれ、「ファイト!」と言って励ましてくれた。
外国人だと訴えた村人は「なぜ渡すのか?」と言うと、「彼も被災者だ!」と言って突き倒すように退けたのには驚いた。しかし、救援物資を返却しようとすると再度「ファイト!」と言って受け取ろうとしないで、行ってしまった。
この時、村人から向けられた、日本人への視線を感じない分けにはいかなかった。複雑な気持ちであった。 私たちに出来る事は、決して大きな事は出来ない。それは「国や国際慈善団体」がすべき事で、一個人が何千万円もの支援が出来るはずもない。
しかし、「緻密な痒いところに手の届くような支援」を目指して日夜奮闘している、 被災から日に日に具体的な形になっていくのには「驚き」でもある。
筋田さんの文章を読むと、地震から多少の時間が経過して、現地にだんだんと落ち着きが戻ってきている事が伺われます。ネパールはこれからゆっくりと復興に入るのでしょう。東日本大震災の後、原発を除けば日本は数年で復興してきましたが、ネパールが完全に元のようになるにはきっと10年から20年の時間がかかることと思います。
日本だったら重機を使いあっという間に終わることが、ネパールでは全部人の手で行われます。重機を使いたいと思っても、山間部で重機が入れなかったり、そもそも重機の絶対数が足りなかったり、重機があってもきちんと整備されていなかったりと本当に様々な障害があります。
僕ら日本は海に囲まれているので、海がないというのがどういう事か想像しづらいのですが、海のない国と言うのは本当に大変です。海のない国では船で海外に行けませんし、物資もなかなか届きません。海外と商売して色々な物がすぐにやってくるのも、海があるからです。
例えば日本からネパールに海便で荷物を送る時を考えてみます。投函された荷物は日本からシンガポールを経由してコルカタの港につきます。コルカタの港で荷揚げされ、ネパール行きのトラックに載せられます。インドの各州のボーダーを超えて、カカルビッタ経由で国境を超えネパール領内に入ります。ヒマラヤの山道を越えてカトマンズへ到着します。日本からコルカタまで一ヶ月、コルカタからカトマンズまで2週間、その間に何回も税関があるので、なんだかんだで2ヶ月はかかります。
ただ物を送るだけで凄い時間と手間とお金がかかるのです。残念な事ですが、そのような国はどうしても発展から取り残されがちになります。
もし、ネパールがインドと戦争したら…ネパールにはほぼすべての物資が入らなくなります。ちなみに中国側はチベットの整備されていない道路超えですので、こちらもあまりアテにはなりません。インドの顔色をいつも伺って生きている…きっとネパールってそう言う小国なんですよね。
さて、筋田さんのレポート、ここから始まります。写真もたくさん付いていますので、ぜひごゆっくりお読み頂ければと思います。
■「ネパール通信」 緊急地震報告(その二)
5月4日(月)天気:晴れ 気温:22℃ 湿度60%
ネパールの人々にとって多くは「初めての体験」であった今回の地震は、いろいろな問題を極貧国に与えた。数多くの家の再建は何十年も掛かる事であろう。さらに、「貧富の差」がさらに広がったと言っても過言ではない。なぜなら、お金のある家は「倒壊せず」貧困な家は「全壊」状態となれば、必然的に借金でしか家の再建は不可能である。
さらに困ったのはやはりネパールマインドである。今までの生活で、支援に慣れている国民である。個人でも団体でも同じだろうと要求してくるから問題が難しくなる。ユニセフや赤十字などの大きな団体も、一個人の支援組織も、彼らには同じなのである。今回のような災害は初めての彼らには、誰でもいいのである。
今回は先のラムチェ村の偵察から知り得た情報で、「初めに必要なものは何?」を考えた結果、第一に食料の不足が目立ち、次に住居・雨対策の順だがラムチェ村は後ろに大きな「崖」を有して、雨期には毎年大きな石が落ちて来るという。これが一番怖いそうである。地震の時も落ちて来て多くの村人が怯えていた。5mも7mもある大きな岩石が数百メートルも「ころがり落ちて来て」は殆どの人が恐怖を覚える。
こうした中で「私たちのやるべき事は何?と考え「適切な被災地へ緻密な痒いところに手の届くような支援が施されるのが理想であろう。」と考えた。
一方、以前「編み物教室」でお世話になった「あやさん」から至急会いたいと連絡があり、4月末日の夕方銀杏旅館まで来てもらった。彼女はアフリカに行っていて、戻ってきてびっくり!取り合えず「何が出来るかを模索」していたようで、旅館に着くと直ぐに「何をどうすれば」いいのか?「何処から」手を付ければいいのか?など機関銃の如く話続けて「ちょっと外へ」といって「一服」、私も外に出て夜景の中で多くの質問に答え、お金を集める努力をする時。今は情報を集める時。今は調査をする時。と言う事を分かってもらった。
8時過ぎになったので「泊まっていく?」と聞くと「ヒッチハイク」でも何でもしてカトマンドウへ戻ります。との話で別れた。翌日、バネパのレストランで彼女から携帯電話があり「明日ラムチェ村」へ行けないか?との問いに、私もメールダラの被災状況調査のために同じ方向へ出向く予定が出来たため、翌日スクテまで同行し彼女はそのままバラビシまで行き「パトネちゃん」と合流後ラムチェ村へ行き、私はミルクのトラックでメールダラと別々の行動を取る事になった。
彼女も被害の大きな所への支援を考えていて、調査のためにラムチェ村へ入りたいとの事。直ぐにパトネちゃんに連絡して、「あやさん」の行く事を伝え、バラビシでピックアップしてもらう事にした。5月2日心配なメールダラの様子を調査に出かけた。
バスを乗り継いで、出来たばかりの鉄橋を徒歩で渡り、大型トラックの荷台に米やラーメン・野菜などと一緒に「ぐちゃぐちゃ」の道を1時間、足腰も「ふらふら」の状態でやっとたどり着いた。村の入り口も多少の被災はあったが、住めないほどではない。
最も心配な「学校」はと言うと、セメントでの補強工事のお陰で殆ど無傷の状態であった。一部クラックの入った所はセメントで補修してもらう事として村々を調査。結果は4?6件の家はかなりひどく破損しているものの、多くは健在であった。
しかし、毎日のニュースでは「余震で崩れる家もあるため、外でテントを張って寝て下さい」との情報から多くの村人はトタンやビニールで立派な「コテージ」を作りキャンプさながらの生活である。しかし、ベッドの数が足りず小さなベッドに4人も寝ている状態であった。
村人も殆ど悲観的ではなく、普段と何ら変わることのない生活をしていた。一安心であった。
村長さんからは「どんな支援をして助けてくれる?」との質問もあったが、ここよりひどい地域「ラムチェ村の支援が先」である事を写真を見せながら説明すると、しぶしぶ納得したようであった。
これで、8月に日本の学生さんたちを受け入れる事が出来る。しかし。周りの街では「がれきの山」であり、それを考えると「良かった!」と喜んでばかりはいられないのが今の心境である。 銀杏旅館の被災状況はと言うと、新館屋上のソーラーでお湯を作る装置の足が「ぐにゃ1」と曲がり現在は使えない状態である。
さらに旧館はと言うと、昔ながらのネパールの家を考えて作った「石と土」の家であったが、セメントで補強していたため大きな破壊もなく「クラック」だけで済んだのは幸いであった。 ここで生活すると言う事は、現地に根付く事を意味するが、7年間も住んでいるが村人は「外国人」と言う目で何時も見ている。
先般もキリスト協会の支援物資が配布された折、(配布はヨーロッパ人)ある村人が私の事を「彼は外国人であるので支援物資は不要」と配布している人に訴えていたが、彼が「ここに住んでいるのか?」と言う質問に「そうです、7年になります」と答えると、黙って「お米一俵と油・2000Rs現金・」を手渡してくれ、「ファイト!」と言って励ましてくれた。
外国人だと訴えた村人は「なぜ渡すのか?」と言うと、「彼も被災者だ!」と言って突き倒すように退けたのには驚いた。しかし、救援物資を返却しようとすると再度「ファイト!」と言って受け取ろうとしないで、行ってしまった。
この時、村人から向けられた、日本人への視線を感じない分けにはいかなかった。複雑な気持ちであった。 私たちに出来る事は、決して大きな事は出来ない。それは「国や国際慈善団体」がすべき事で、一個人が何千万円もの支援が出来るはずもない。
しかし、「緻密な痒いところに手の届くような支援」を目指して日夜奮闘している、 被災から日に日に具体的な形になっていくのには「驚き」でもある。