古き美しきインドの歌声と世界が失った多様性 インドの歌姫ラタ・マンゲシュカル逝去
目次
■まずはラタの歌を聴きながら♫
今回の記事はインドを代表する歌姫ラタ・マンゲシュカルの追悼記事ですので、彼女のYou Tubeを聴きながら読んでいただけると幸いです。懐かしくも美しいメロディとともに、映画が最高の娯楽であった頃のインドを思い返しつつ、筆を進めてみたいと思います。
■古く美しい時代の記憶
インド映画の黄金時代を飾り、インドの町中をその美しい歌声で彩ってきたインドの歌姫ラタ・マンゲシュカルが2022年2月6日にお亡くなりになりました。92歳でした。彼女のキャリアの黄金時代のインドを旅行した私達にとって、彼女の歌声は、まさに古き懐かしきインドそのものです。ティラキタ買付班がインドに初めて行ったのは1994年の事です。急速な経済成長を遂げ、今でこそ、世界の大国として存在感を出しているインドですが、その頃のインドはヒッピーの目的地であり、1泊100円以下の安宿に旅行者がたむろしいて、時間はゆっくりと流れていて、まさに悠久のインドという言葉がふさわしい様な感じでした。
旅行者の間では「One day One thing - 一日に一つのことしかやらない」という言葉が流行していて、「今日は両替しかたら終わり」とか、「今日は列車のチケットを取るために駅に行ったから終わり」とか、「今日は洗濯したから終わり」とか言い合っていたものです。実際問題、その頃のインドは何をするにも一苦労で、一日に一つの用事を片付けるのが精一杯でした。
何をするにも本当にスムーズに行かないのがインドでした。
列車に乗って旅行しようと思ったら3時間、5時間遅れは当たり前で、珍しく定時に電車が来たと思ったら、それは前日の電車だったりしました。手持ちのお金を両替しようと思っても、両替できるのは町に一軒あるステートバンク・オブ・インディアでしか両替できず、両替をするのが2日がかりだったこともありました。
そんな時代を知っている私達にとって、今回のラタ・マンゲシュカルの逝去は、インド映画の一時代、いや、古き良き世界の終わりとも言うべき出来事だとすら感じられるのです。
■インド映画の黄金時代
インドは世界一の映画の制作本数を誇る国です。2017年のデータによるとインドでは年間に1986本の映画が作られていて、第2位の中国の制作本数の倍以上です。日本の制作本数が594本ですから、日本の3倍の数の映画が作られています。そして近年、撮影機材のデジタル化により映画製作が簡便になり、年々制作本数が増えています。
「インドは映画大国なんだな!」って感じますが、インドには日本の10倍以上の人口がいて、話される言葉も様々です。ヒンディー語、タミル語、マラティー語、テルグ語など、お札に書かれている言葉だけで17言語。実際にインド中で使われている言語は100を超えるのだとか。
そのメジャーな言語ごとに映画が独自に作られているんですね。
だから、自然と世界一の制作本数になるのです。
一口にインド映画といいますが、言語が違えば文化も異なり、出演している俳優も違ったりと、様々な違いがあるものです。
そしてここからはティラキタ買付班が勝手に思う事なのですが。
インド映画が一番輝いていた時期はインターネットが出現する前だったんだろうなぁ…と思うのです。
インターネットが出現する前は、他に比較するものもなかったから、その地域の流儀で映画が作られてきていました。
知らないから、自分たちの方法で映画を作り、物語を紡ぐしかなかった。
延々とダンスシーンを入れたりする、独自の文法が生まれ、発展を遂げてきました。
しかし、近年は、インド映画の個性は徐々になくなり、どちらかと言うと、グローバルでも通用する映画作りへの道筋をたどっています。
原因はインターネットの出現と、インドの成長でしょうね。
インターネットって、世界中で知識をシェアして、世界の知を平均化する装置ですからね。
徐々に世界が平均化されていくのは、仕方のないことです。
インターネットがあったら、インドの個性や、インド映画の独自の文法は出現しなかったんだろうな、って思うんです。
ネットで出ているものを見てから作品を作りますから、インド映画だけが独自の発展をするなんてことは考えづらいですよね。
■インド映画の文法
物語を紡ぐ時、そこには文法というものが存在します。独自に発展したインド映画の文法は、私達が知っている西洋映画の文法と大きく違うため、ときに面白く、時に不可解に思われます。私達を楽しませ、そして不可解に思わせる文法の代表格は、頻繁に挟まれるダンスシーンです。
インド映画と言ったらダンスシーン!!!ですもんね。
インド映画とダンスシーンは切っても切り離せない間柄です。
このダンスシーン。
インド映画を特別視しないフラットな視線で見ると「ダンスシーンって必要なくないか?」と思うんですが…
ダンスシーンを必要としたインドならではの事情がそこにはあります。
インドではSEXはもちろん、キスを含んだ性表現は厳しく制限されています。流石に最近はキスはOKなのかな。でも、濡れ場シーンはまだまだ難しいでしょうね。経済が成長し、ネットで誰もがポルノを見ることができるようになって、その辺の制限も緩くなってきつつありますが、以前は本当にガチガチの規制でした。映画や印刷物で、キスやSEXを描くのはご法度でした。
また、インドではアレンジド・マリッジと呼ばれる、家と家のお見合い婚が現代でも主流なので、恋愛=ロマンスへの強いあこがれがあります。自由にならない自分の人生の代替として、映画の中で恋愛を楽しむという側面がありました。
男女の恋愛を描く時、濡れ場シーンは欠かせないものであるとは思いますが、規制上、そこを描くわけにはいかない。
しかし自由恋愛は描きたい。
そのための手段として発達したのが、ダンスシーンです。
映画の中で男女がいい感じに顔を近づけて、甘い雰囲気になってくると、突如挿入される激しいダンスシーン。
「なんだなんだ。なぜ、いいところでダンスシーンになるのだ?」
インド映画を見始めた当初は戸惑いましたが、途中から文法を理解し、「ああ、これがインドのベッドシーンなのか」と、脳内変換されるようになったものです。インド映画を見慣れてくると、ダンスシーンとは「感情の表現方法」なのだなとわかってくるようになります。
だから、ダンスシーンは、濡れ場だけでなく、様々なシーンにおいて、感情の表現手法として便利に使われています。
■感情のコントロールが上手なインド映画
インド映画は、映画全体を通しての感情のコントロールがものすごい上手だなと感じます。1900年代に一斉を風靡したシャー・ルク・カーンの映画たちは、一つのテーマソングをベースにして物語が始まり、何回もテーマソングを形を変えつつリフレインさせていき、ダンスシーンを要所要所には挟んで感情を上手に表現し、ありとあらゆる困難を主人公に与えつつ、最後にテーマソングと一緒に恋愛の成就に向けて進んでいく形を取ります。
これが、本当に物語への感情移入が半端なくて。
そして、テーマソングへの感情移入も半端なくて。
大好きな映画の曲を聞くと、今でもクライマックスのシーンを思い出して泣いてしまうほどです。
ティラキタ買付班が大好きなのはVeer Zaaraって言う2004年の映画です。インドとパキスタンの2国で離れ離れになった恋人同士が、国の垣根を超えてまた結ばれるというインドならではのストーリーでした。シャー・ルク・カーン素敵だったなぁ…はぁ…
■プレイバックシンガーというお仕事
そんな感情移入する映画を作るために欠かせないのが、素敵なプレイバックシンガーの存在です。プレイバックシンガーとは映画のダンスミュージックを歌う人のことで、映画がヒットするかどうかは、このプレイバックシンガーの力量にかかっているとも言われます。感情移入させまくる映画の、感情移入させまくる曲の、歌を歌う人ですからね。
それはそれは重要な役割です。
そして、先日お亡くなりになったラタ・マンゲシュカルはインドの国民的なプレイバックシンガーでした。
彼女の歌は、映画館の中だけでなく、町中でもよく流れていました。
1980年代から2000年代にインドを旅行した旅人の多くが、旅行中に彼女の歌を耳にし、彼女の歌を、インド旅行のテーマソングであるかのように感じていたはずです。
バラナシからコルカタに電車で到着して、フグリー河を超えるための渡し船の船着き場で。古くてひん曲がったラッパ型のスピーカーから、ラタの歌がキンキンと高音だけ聞こえてきていました。茶色い濁流と、埃っぽくて前時代的なコルカタの風景と、ラタ・マンゲシュカルの歌。それは私達、ティラキタ買付班にとって、紛れもないインドの原体験なのです。
■変わり続ける世界
インターネットが世界を覆い、便利になり続ける世界の中で、彼女の死は、古き良きインド、そして古き良き世界の終焉を感じるのです。
家族と生活していても、ゲームばかりやっていて一週間も顔を合わせないなんて言うことも起こる現代ですが、そんなものがなかった昔は、もっともっと、人と人の関係が近く、アナログだったよなと思い起こすのです。家族と居ても、友人と会っても、目の前のスマホに夢中で、人と人が真剣に向き合っていない時があるよなと思うのです。
インドが現在のように変わるきっかけになったのは、1991年にインドの保有外貨が底をつき、債務不履行寸前になった経済危機を切り抜けるため、当時のナラシマ・ラオ政権が実施した「新経済政策」からです。インドではそれ以前、生産の多くは公営企業が担い、主な価格が統制される社会主義型計画経済を取り込んだ「混合経済」が行われていました。※
インドは、中国と似たような道筋をたどって、同じ様に成長してきたのです。
もちろん成長は喜ばしいことだとは思いますが、それによって失われたものも、また、たくさんあります。
経済成長したら、幸せなのか。
便利になったら幸せなのか。
ネットで目の前にいない人と繋がれたら幸せなのか。
と言うと、100%そうだと言うものでもなく、不便で貧しい中にはたくさんの人間味と、面白さが詰まっていたような気がするのです。
一度ネットの便利さを知ってしまった僕らは、もう元に戻ることはできないけど。
ネットがないあの時代は、世界が個性にあふれていて、それは多様性であり、それは幸せであったと。
アナログで甘いテイストのラタ・マンゲシュカルの歌を聴きつつ思うのです。