Road to Goa – 人生初インド 約束の地へ呼ばれる
目次
■世界はこの1ヶ月ですっかり変わってしまった
現在ネットを見てもテレビを見ても、目に入ってくるのはコロナウイルスのニュースばかり。つい数ヶ月前までは世界中を格安航空が繋ぎ、日本は津々浦々までインバウンド需要に沸き、今頃オリンピックに向けて盛り上がってるはずだった。世界はこの1ヶ月ですっかり変わってしまった。 中国の武漢を震源地としたたった一つのウイルスによって。この文章を書いている4月末の時点で世界の感染者は300万人を超え、死者は20万人以上に登る。特にイタリアやスペイン、ニューヨークの被害は甚大で、人類がこれを克服してまた元の世界に戻るのに、一体どのくらいの時間がかかるのか見当もつかない。大都市や高齢者ほど危険という現代社会の弱点を突いてきたようなこのウイルスは、潜伏期間が長く感染力が非常に強い。対応が遅かった日本もついに緊急事態宣言を出し、街角から人影が消えた。写真が仕事なので普段からあちこち移動している僕も、今は家にいて2月に旅をしたゴアの写真を見返している。思えばこの時からコロナのことはニュースになっていたが、まだ中国だけの問題といった感じで、それほど深刻なことにはなっていなかった。インドにもまだ感染者はおらず、マスクをしている人など皆無の呑気な空気だった。この混乱から世界が立ち直るのにはかなりの時間がかかるだろう。航空便の運行停止も相次ぎ、以前のように思いついたらスカイスキャナーで、格安航空のチケットを取ることなど夢のまた夢。インドに関してはそもそも3月中ばからビザがおりず、それがいつ解除されるのかも分からない状況だ。■人生初インド 約束の地へ呼ばれる
期せずしてコロナ騒動以前の奇跡的なタイミングで、駆け込みのような旅になってしまった人生初インド。深夜特急や藤原新也などを読み漁った大学時代から憧れてはいたが、いかにも「自分探しのバックパッカー」という気がして、無駄に意識の高かった大阪の片田舎の芸大生だった自分は、インドをあえてずっと避けていた。それなりに歳を取り無駄な自意識も消え、体力に余裕のあるうちに一度はインド、それもゴアに行きたいという気持ちがここ数年で強くなっていた。思えば初めてゴアという土地のことを知ったのは、大阪での大学時代にレイヴで初めて耳にしたゴアトランスだった。当時は東京だけでなく関西でもコズミックドラゴンやリングなど、様々なオーガナイザーがクラブやパーティーを頻繁に開催していた。南港にあったベイサイドジェニーにゴア生まれゴア育ちのDJドミノを呼んで行われたイベントなど、物凄い人と熱気で踊ることもできず2階からフロアをぼーっと見ていたのを覚えている。野外レイヴもキャンプ場はもちろん、大学近郊の牧場や文化祭でもやっていた。そして世はミレニアム。新世紀への期待と不安が入り混じり、ネットで世界が情報化される以前の最後の沸騰したカオスだったように思う。初めて聞いたゴアトランスは、今まで聞いたどんな音楽とも違っていた。当時流行していたエピックのトランスなどとは違い、土臭く宗教的なメロディー。アゲ過ぎることもなく、どんどん自己の内側に入り込んでいく畳み掛けるような曲展開。当時はHMVやタワレコにも小さいながらゴアトランスのコーナーがあり、聴けるものは片っ端から試聴して必死に情報を集めていた。コンピのGOA HEADなどがアーティストを掘るのに便利だった。調べていくと、どうやらこの音楽はヒッピーの聖地と呼ばれるインドのゴアが発祥。そしてトラベラーを介して世界中に広まったものであるということ。その後就職などもあり東京へ。忙殺されシーンから一時離れる時期もあったが、疾走するゴアトランスは気持ちとリンクするのか常に傍にあったように思う。その後2009年の奄美皆既日食を経て、四国へ帰郷してから早10年が経つ。その間に出会ったのが高知の宇宙旅行社のチエゾーさんやドゥニクリスタルの安藤さん、地球家のヨージさんなどゴアゆかりの人が多かった。またゴアで言えば奄美の皆既日食で縁ができた、DJのレイ・キャッスルとパートナーのサチさんは特に強烈だった。その後レイを香川へ呼んでクラブや野外フェスなども行い交流を深めるに連れ、彼らから80年台のゴアの話を聞いて彼の地への想いは募っていった。東京でのスタジオマン時代に出会った写真家、半沢克夫さんも70年代のゴアを旅していてよく話を聞いていた。写真集「INDIA」は何度見返したか分からない。そんなことがあり、人生の節目節目で僕に刺激を与えてくれた音楽ゴアトランス 。その発祥の地ゴアへは、タイミングがあればなんとか一度行ってみたいと思い続けていた。そんな折友人たちがゴアでイベントをするという話を聞き、撮影はもちろんそこで写真展示も是非との話。少なからず自分の人生に影響を与えて来たレイヴカルチャー発祥の地をこの目で見たい。今なら体力と気力にもまだ余裕があるし、そもそもこれを逃しては一生インドへ行く機会は無いかも知れないと勢いで航空券をゲット。かくして僕は30代最後の年にして約束の地へ呼ばれることとなった。■初めて訪れるインドはとにかく全てが強烈だった
昨今世界を騒がせているコロナウイルスは、2020年2月頭の時点ではまだ中国の局地的なパンデミックといった報道だった。その時点での海外渡航は確かに心配だったが、マスクと手洗いを徹底すればそれほどでも無いだろうといったイメージ。しかし実際はトランジットで寄ったバンコク、そしてムンバイの空港でも検疫の長い行列に耐えなければならず、インドから帰国時の成田で一切何の検査も無かったのは逆に恐怖だったのを覚えている。ムンバイまでのチケットを取る時香港経由とバンコク経由で迷ったのだが、当時どの空港でも中国便は全て欠航していたので運は良かった。まさかその後世界がこれほど変わってしまうとは、その時は思いもよらなかった…。初めて訪れるインドはとにかく全てが強烈だった。初日に滞在したインド最大の都市ムンバイからかなりのインパクトを受けたのだが、それは長くなるからまたの機会に。ムンバイからゴアへは深夜便での電車移動を選択。前もってネットで予約してもらっていたため乗り込みはスムーズだった。同室の家族に話しかけると、彼らもマーガオというゴア州の最寄駅で行き先が同じ。3段ベットの一番上の席を替わってあげ、運ばれてきた食事をとると旅の疲れからかすぐに眠りについてしまった。夜中にトイレで起きた時、列車はどこか名前も分からない無人駅に一時停車していた。インドの列車は扉が常に開きっぱなし。外を見るとホームを数匹の野犬がうろついていた。恐らくもう一生来ないであろう土地、もう見ることの無い風景。旅に出て、旅情を強烈に感じるのはこういう時だ。マーガオへの到着は早朝5時。睡眠をとっておかないといけないと思い、すぐに毛布に潜り込み再び眠りについた。 下のベッドで寝ていた家族に起こされると、列車は夜明け前のマーガオの駅に滑り込む所。地平線だけが真っ赤に染まっていて、もうすぐ朝日が昇ってくることを告げている。ムンバイの印象は大気汚染からか黄色だったが、ゴアは間違いなく赤。外に出ると、実際土の色も真っ赤だった。早朝なのに外は凄い人。タクシーの客引きがドッと寄って来て、口々に「アンジュナ?アンジュナ?」と僕の取り合いになった。そう、ゴア州でほとんどの外国人旅行客が行くのはアンジュナビーチなのだ。人の良さそうな人相の運転手に決め、1時間ほどタクシーに乗ってアンジュナ近郊にAirbnbで予約していたゲストハウスへ。■ゴアと言ってもかなり大きい
行くとなってから事前に調べて、一口にゴアと言ってもかなり大きいことが分かって来ていた。インドではゴア州全体のことを指し、大きさは奈良県より少し大きいくらいで国内最小の州。とにかくインド亜大陸自体が日本の9倍近い面積とメチャクチャ大きいのだ。 昨今のゴアは豊かになりつつあるインドを象徴していて、増えてきている中産階級インド人たちのリゾート地として発展しており、国内唯一のカジノもある比較的裕福な州となっているらしい。州の西側は全体がアラビア海に面しており、日本人がイメージするヒッピーの楽園としてのゴアは、その長大なビーチのほんの一部、北部にあるアンジュナビーチ周辺のこと。ゴアはポルトガルの統治下にあったためヒンドゥー教徒よりもキリスト教徒が多く、飲酒に寛容など独自の文化が発展した。そんなインドであってインドでは無いような独特の風土が、当時のヒッピーたちのマインドにマッチしたのだろう。実際に車窓から景色を見ていても、今までほとんど見かけなかった十字架を頂いた教会をたくさん目にした。 いよいよアンジュナに到着。ビューティフルゲートウェイBnBは、ネット予約では2000ルピーと高額な割には良くも悪くもない普通の部屋。後で話を聞くとここら辺の相場は500ルピーほどらしく、この日1日だけ泊まってすぐに宿を移動した。ネット時代でも、やはり現地で口コミを確認するのが一番だ。アンジュナのホテルはほとんどが海から離れた内陸部にあり、想像していたビーチリゾートとは少し違った。周囲は開発も著しく、真新しいコテージが多数建築中。宿の主のレズメンさん(55)は30年前からゴアでゲストハウスを経営しているそう。宿で生計を立ててはいるがパーティーやヒッピーは嫌いで、開発で大きな木が切られたりアンジュナは大きく変わってしまったと嘆いていた。その後友人たちと合流。モンキーバーという宿から程近いレストランへ行くと大柄な店主が迎えてくれた。後から聞くと彼はアンジュナでは有名人で、なんとインドヤクザとのことだったが日本人は大好きらしく超フレンドリー。ゴア名物のフィッシュターリーとキングフィッシャービールを注文する。日本円で500円くらいなのにメチャクチャ美味い!■インドではヒンドゥー教が飲酒を禁じている
インドではヒンドゥー教が飲酒を禁じているため、アルコールを売っているところは本当に少ない。大都市ムンバイでもほとんど見かけることは無かった。それがゴア州に限ってはキリスト教徒が多いため寛容。さらに酒税が安いと至れり尽くせり。他の州からわざわざゴアに酒を買いに来る密輸団もいるため、それだけを取締る警察もいるそうだ。アンジュナにある大型スーパー、オックスフォードアーケードはインドとは思えないような種類の酒を売っていて、ここには結局毎日通うことに。ちなみに暗くなると閉店なので、サンセットの前に買い物は済ませておきたい。 その後歩いて目抜き通りのアンジュナ交差点まで皆で散策。観光客向けのお店が多く、日本ではもう見ないタイダイやサイケデリックな柄のTシャツがたくさん売られている。至る所にイベントのポスターや看板も見られ、パーティーの聖地へ来たんだなあと勝手に感動してると、どこの店先にも茶色い液体が入ったペットボトルが置いてあるのが目についた。聞くとそれはなんとガソリン。アンジュナにはガソリンスタンドがないため、1リットル90ルピーほどでどこの商店でもガソリンが売っていた。日本なら絶対に許されない風景だが、ガソリンスタンドの少ないインドでは便利と感じてしまうのだから慣れは怖い。
宮脇 慎太郎
1981年香川県生まれ。大阪芸術大学写真学科卒業後、日本出版、六本木スタジオなどを経て独立。大学在学時より国内外への旅を繰り返した後、2009年奄美皆既日食音楽祭を節目に高松に活動の拠点を移す。辺境bの聖性をテーマに風景やポートレートの撮影に取り組んでいる。
2012年から仲間とBookcafe solowを運営。2015年、日本三大秘境祖谷渓谷を撮り続けた写真集『曙光 The Light of Iya Valley』をサウダージブックスより出版。写真を大幅に追加してのバイリンガル版『霧の子供たち』を2019年に出版した。
次作に初のノンフィクション『ローカル・トライブ』、宇和海沿岸を撮り続けた『rias land』などを予定している。瀬戸内国際芸術祭2016、2019公式カメラマン。
1981年香川県生まれ。大阪芸術大学写真学科卒業後、日本出版、六本木スタジオなどを経て独立。大学在学時より国内外への旅を繰り返した後、2009年奄美皆既日食音楽祭を節目に高松に活動の拠点を移す。辺境bの聖性をテーマに風景やポートレートの撮影に取り組んでいる。
2012年から仲間とBookcafe solowを運営。2015年、日本三大秘境祖谷渓谷を撮り続けた写真集『曙光 The Light of Iya Valley』をサウダージブックスより出版。写真を大幅に追加してのバイリンガル版『霧の子供たち』を2019年に出版した。
次作に初のノンフィクション『ローカル・トライブ』、宇和海沿岸を撮り続けた『rias land』などを予定している。瀬戸内国際芸術祭2016、2019公式カメラマン。