練習に継ぐ練習、インド古典を志すものの純粋な生き様
私達、インド古典音楽好きは、インド古典音楽は世界最高峰の音楽形態の一つだと考えています。
例えばザキール・フセインのこの演奏。
あまりのテクニックの高さにビビります。
例えばこの演奏も。美しすぎて、鳥肌が出ます。
例えばこの演奏も。声と音の本質を求めた声楽表現は素晴らしいものだと思います。
インド古典は古典という名前がついていますが、私達がイメージするような古臭い音楽ではありません。むしろ…
・伝統的だけど、いつも新しい。
・保守的な部分もあり、革新的でもある。
・天才たちが切磋琢磨して、技を競い合っている。
そんな新しい部分がたくさんの、演奏するたびに内容が変わる、今、生きている音楽なのです。
今、この文章を書いているインドパパも、インドと日本を往復しつつ、5年ほど頑張って修行しましたが、5年かけても全く何も出来ませんでした。インド古典は本当に難しい音楽でした。今でも、一握りの天才にのみ、演奏することを許された音楽なのだと感じています。
難しさの一例として、音階の事を挙げてみたいと思います。
インド古典では音階はラーガと呼ばれますが、ラーガは一説によると500種類以上あるとのこと。ですが、一つのラーガでも、その音階の本当の美しさを理解し、表現できるようになるまでには何年にも渡る長い修業が必要です。テクニックはもちろん、音階への深い理解、一音一音を大切にする姿勢、音への真摯な態度、その様なもの全てがどれも大切です。
ちょっと練習して出来るようになって、「ヒーリングぽく演奏できるから、自己流でいいや」等と言う甘い考えでは、その辺の日本人は騙せても、インドの音楽好きは認めてくれません。
ちゃんとした師匠について、時間をかけてきちんと習っていくしか習得の方法がありません。
一流と言われるインド古典奏者の多くは、奏者の家に生まれ、3歳の時から仕込まれ、長い時間を練習に費やした後に世に出てきます。
日本人の演奏者さんたちも数多くいますが、全員、きちんとした先生に弟子入りし、長い時間をかけて練習しています。
そして、人生をかけて真摯に練習していくのですが…どのような気持ちで練習しているかをバンスリ奏者の寺原太郎さんが「先生の言葉」というTwitter Botを作っていますので、紹介してみたいと思います
インド古典は師匠から弟子へ、そして弟子からその又弟子へと受け継がれていくもの。だから、練習して、練習して、一人前になるのが師匠のためでもあります。
それだけ長い時間を師匠と一緒に過ごしたのでしょう。そして師匠のことを愛していたのでしょう
これは本当にそう。いい音楽は最初の一音が違う。一音を大切にしない音楽は、聴ける音楽じゃないと思う。
インド古典は習得するのに長い時間がかかります。美しさを表現するにも長い時間がかかります。だから、本気で習いたいって人以外に教えても、時間の無駄なんだと思います。
本当に美しい音階と。美しくない音と。混ぜるのは簡単だけど、美しいものを美しいままにしておくのはちゃんとした理解がいると思います。
練習、練習、そして練習
練習を毎日の習慣にして。とにかく練習
音は師匠から弟子へ、そして弟子からまたその弟子へ。音は誰のものでもありません。
そして、限界までの美しさを求めます
音の中の美しさをただひたすら求めて。
どんなに練習しても、どんなに上手になっても、まだまだ道の途中。
私の師匠は「お客さんに対して音楽を奏でるんじゃないんだ。お前は神様に対して音楽を奏でているんだから満足するな。」と言っていましたっけ。
友人のバンスリ奏者は練習の虫で、誰に聞いても「いつも練習しているよね」と言う評判しか聞きません。そして、いくら褒めても、いつも謙遜します。
バラナシに住んでいるサントゥール奏者は毎日、自分の家の中のシヴァリンガムという石の前で、延々と練習していました。シヴァに音楽を捧げているのだと言っていましたっけ。
彼らは人間界の評価なんて気にしてないんだな。自分の中の内なる声に従っているのだな、と思うんです。
なんでもスマホででき、便利になる世の中なのに、彼らは美しい音楽を奏でる、ただそれだけの為に人生のすべての時間を投げ打っているのです。その姿にはただ、感動しかありません。
いくらインドがヒドい国であっても、こんなにも美しい部分がある。
その、何でもありの多様性こそが、インドという国の本質的な魅力なのだと思います。
例えばザキール・フセインのこの演奏。
あまりのテクニックの高さにビビります。
例えばこの演奏も。美しすぎて、鳥肌が出ます。
例えばこの演奏も。声と音の本質を求めた声楽表現は素晴らしいものだと思います。
インド古典は古典という名前がついていますが、私達がイメージするような古臭い音楽ではありません。むしろ…
・伝統的だけど、いつも新しい。
・保守的な部分もあり、革新的でもある。
・天才たちが切磋琢磨して、技を競い合っている。
そんな新しい部分がたくさんの、演奏するたびに内容が変わる、今、生きている音楽なのです。
■聴く喜び、演奏する苦労
インド古典は聞く側にとっては、非常に美しい音楽ですが、修行し、演奏する側にとってはまるでイバラの道を歩むかのようなハードルの高い音楽です。誤解を恐れずに言うと、練習が大好きなマゾしかできない音楽だと思います。今、この文章を書いているインドパパも、インドと日本を往復しつつ、5年ほど頑張って修行しましたが、5年かけても全く何も出来ませんでした。インド古典は本当に難しい音楽でした。今でも、一握りの天才にのみ、演奏することを許された音楽なのだと感じています。
難しさの一例として、音階の事を挙げてみたいと思います。
インド古典では音階はラーガと呼ばれますが、ラーガは一説によると500種類以上あるとのこと。ですが、一つのラーガでも、その音階の本当の美しさを理解し、表現できるようになるまでには何年にも渡る長い修業が必要です。テクニックはもちろん、音階への深い理解、一音一音を大切にする姿勢、音への真摯な態度、その様なもの全てがどれも大切です。
ちょっと練習して出来るようになって、「ヒーリングぽく演奏できるから、自己流でいいや」等と言う甘い考えでは、その辺の日本人は騙せても、インドの音楽好きは認めてくれません。
■師匠から弟子に受け継がれる伝統の音
そう言った理由から、インド古典音楽は、自己流では全く歯が立たない音楽です。ちゃんとした師匠について、時間をかけてきちんと習っていくしか習得の方法がありません。
一流と言われるインド古典奏者の多くは、奏者の家に生まれ、3歳の時から仕込まれ、長い時間を練習に費やした後に世に出てきます。
日本人の演奏者さんたちも数多くいますが、全員、きちんとした先生に弟子入りし、長い時間をかけて練習しています。
そして、人生をかけて真摯に練習していくのですが…どのような気持ちで練習しているかをバンスリ奏者の寺原太郎さんが「先生の言葉」というTwitter Botを作っていますので、紹介してみたいと思います
■心に響く言葉たち
この言葉はコルカタの名門シタールメーカー出身で、現在は名古屋に住むAmit Royさんの言葉です。もう、どの言葉も美しくて、音楽への愛に満ちていて、心にじんと響きます。俺、おまえの為にできること何でもする。何でもだ。だからおまえ、たったひとつだけ俺のためにして。練習して。
— 先生の言葉 (@Amit_Roy_bot) 2017年9月29日
インド古典は師匠から弟子へ、そして弟子からその又弟子へと受け継がれていくもの。だから、練習して、練習して、一人前になるのが師匠のためでもあります。
今でも時々先生の夢を見る。声も、匂いも、今でもぜんぶ憶えてる。
— 先生の言葉 (@Amit_Roy_bot) 2017年9月28日
それだけ長い時間を師匠と一緒に過ごしたのでしょう。そして師匠のことを愛していたのでしょう
ご飯炊いて、フタ開けてちょっとつまんで食べたらわかるでしょ。美味しいご飯炊けてるか、失敗して駄目なってるか。音楽も一緒。最初の音聴いたらわかる。その人がどういうところにいるか。全部食べなくてもわかる。
— 先生の言葉 (@Amit_Roy_bot) 2017年9月19日
これは本当にそう。いい音楽は最初の一音が違う。一音を大切にしない音楽は、聴ける音楽じゃないと思う。
今から俺が教えること、ほんとに本気でおまえから習いたいって人にだけ教えて。誰にでも教えないで。本気で習いたい人だけ。
— 先生の言葉 (@Amit_Roy_bot) 2017年9月28日
インド古典は習得するのに長い時間がかかります。美しさを表現するにも長い時間がかかります。だから、本気で習いたいって人以外に教えても、時間の無駄なんだと思います。
俺あのコに美味しいものいっぱいあげた。なのにあのコ馬鹿だからすぐうんこみたいなものと一緒にしちゃう。美味しいものとうんこみたいなものの違いわかってない。
— 先生の言葉 (@Amit_Roy_bot) 2017年9月27日
本当に美しい音階と。美しくない音と。混ぜるのは簡単だけど、美しいものを美しいままにしておくのはちゃんとした理解がいると思います。
それいいから練習して!サの音わかってから言って!
— 先生の言葉 (@Amit_Roy_bot) 2017年9月27日
練習、練習、そして練習
練習は歯磨きと同じ。毎日の習慣になる。一日楽器に触らないとなんか気持ち悪い。そうなる。
— 先生の言葉 (@Amit_Roy_bot) 2017年9月26日
練習を毎日の習慣にして。とにかく練習
俺の弾いてる音楽、俺のもの何もない。全部先生からのもの。先生から預かって、また次の人に渡す。音楽、そういうもの。俺が!とか俺の!とか、そういうものじゃない。
— 先生の言葉 (@Amit_Roy_bot) 2017年9月23日
音は師匠から弟子へ、そして弟子からまたその弟子へ。音は誰のものでもありません。
スピードには限界があるけれど、美しさには限界がないでしょ?どこまでも行ける。
— 先生の言葉 (@Amit_Roy_bot) 2017年9月23日
そして、限界までの美しさを求めます
もっと音聴いて。よく聴いて。音の中の気持ちまで全部わかって。
— 先生の言葉 (@Amit_Roy_bot) 2017年9月24日
音の中の美しさをただひたすら求めて。
レコーディングもよくできた。コンサートも成功だった。
— 先生の言葉 (@Amit_Roy_bot) 2017年9月26日
もう俺なんでもできる!そう思ったらバティヤール来ちゃった。どうする?
バティヤール終わったら、ケダール来ちゃう。どうする?
ラーガの世界、まだまだ深いよ?。どこまでもあるよ?(笑)
どんなに練習しても、どんなに上手になっても、まだまだ道の途中。
先生にこれを言われたら、ただ泣くしかない。そして練習するしかない俺の先生も、先生の先生も死んじゃった。俺ももうすぐ死んじゃう。みんな必ず死ぬね。音楽だけがずっと生きてる。
— 先生の言葉 (@Amit_Roy_bot) 2017年9月20日
■Amit Royさんだけが特別なんじゃない
Amit Royさんだけではなく、インド古典を真剣に志す人達からは、素晴らしい言葉や行動が溢れ出てきます。私の師匠は「お客さんに対して音楽を奏でるんじゃないんだ。お前は神様に対して音楽を奏でているんだから満足するな。」と言っていましたっけ。
友人のバンスリ奏者は練習の虫で、誰に聞いても「いつも練習しているよね」と言う評判しか聞きません。そして、いくら褒めても、いつも謙遜します。
バラナシに住んでいるサントゥール奏者は毎日、自分の家の中のシヴァリンガムという石の前で、延々と練習していました。シヴァに音楽を捧げているのだと言っていましたっけ。
彼らは人間界の評価なんて気にしてないんだな。自分の中の内なる声に従っているのだな、と思うんです。
なんでもスマホででき、便利になる世の中なのに、彼らは美しい音楽を奏でる、ただそれだけの為に人生のすべての時間を投げ打っているのです。その姿にはただ、感動しかありません。
いくらインドがヒドい国であっても、こんなにも美しい部分がある。
その、何でもありの多様性こそが、インドという国の本質的な魅力なのだと思います。
40年位前にコルカタの友人の家で親戚の男性がタブラを演奏してくれました。シタールを演奏する人がいなかったので聞くと、シタールを習わせるには生まれた時にシタールの材料になるカボチャを探してもらうところから始まるのだそうです。カーストのある国ですから、ミュージシャンになる人は生まれる前からその道を運命づけられているのだそうです。偉大なミュージシャンは一人の努力でできるわけではなく、何代も前からその才能を受け継いでいるのですね。彼等の音楽の深さに感動しています。